プログラムノート

原田英代ピアノ・リサイタル
~ラフマニノフと、彼が愛した作曲家たち~

2024年1月28日 武蔵野市民文化会館 小ホール
2024年1月20日 防府天満宮 参集殿

ピアニスト、ラフマニノフ

 ラフマニノフはモスクワ音楽院のピアノ科と作曲科を金メダルを得て卒業しており、作曲家である以前にピアニストであった。幸い彼の演奏の音源は残されており、彼がいかに傑出したピアニストであったかを知ることができる。しかもホロヴィッツが「ラフマニノフは私より遥か上に存在するピアニストだ。彼の録音は、その凄さの半分も伝えていない」と語っているのを聞くと、ラフマニノフが想像以上に驚異的なピアニストであったことが窺える。
 録音が十分伝えることができないものとしてまず思いつくのは、“響き”である。ラフマニノフの音の響きへの並外れた感性は、少年時代から培われた。彼は12歳のときアントン・ルビンシュテインのリサイタルを聴いて、魔法にかけられたような衝撃を受ける。ルビンシュテインの稀有な演奏は、卓越した技術ゆえではなく、個々の音と各々の小節が訴えかけてくる精神的に洗練された音楽性ゆえであった。彼の魔術的なタッチは、ピアノから摩訶不思議な響きを引き出し、ラフマニノフは音に「色」があることを知る。ルビンシュテインはピアノという楽器が何百もの音色に変容できることを熟知していた芸術家で、響きを「目もくらむばかりの光の束」に喩え、「黒いバス(低音)」「ガラスのように透き通ったパッセージ」「雪崩のような和音」などと描写した。こうしたまるで絵を見るかのような言葉は、技術からではなく違った角度から音へアプローチする術をピアニストに示唆する。かくしてルビンシュテインの芸術は、ラフマニノフの生涯の指針となっていく。
 ラフマニノフは自作自演もさることながら、他の作曲家の作品でも作曲家ならではの洞察力で稀有な演奏を多数残した。彼は“楽譜”という言語を音によって翻訳するピアニストだったのだ。そうしたラフマニノフの演奏を聴くと、リストの言葉を思い出す。

 「作品に対して消極的な召使いはヴィルトゥオーゾではない。委ねられた芸術作品が生きるか死ぬかは、その召使いが作品にいかに息吹を吹き込むかにかかっている。」
 アメリカ亡命後、ラフマニノフは家族を養うためにコンサート出演の契約を交わす。それ以来、第一級のコンサートピアニストとしてのレベルを保つため、この大作曲家は自分に厳しいピアノの練習を課す。妥協しない彼はいつも自分の演奏に満足できず、練習に練習を重ねた。それは華々しいテクニックを保持するためだけではなく、強い洞察力で演奏解釈をより深めるためであった。

ラフマニノフが愛した作曲家たち

シューマン;アラベスク 作品18
 ラフマニノフが夏を過ごしたイワノフカの別荘は、現在博物館になっている。私が訪れた1992年にはまだ赤茶色の古い建物が残っており、ラフマニノフの写っている黒白写真のままであった。そして彼が使用したピアノの上にシューマンの肖像画を見つけたとき、シューマンへの並々ならぬ憧憬を感じた。 シューマンにとって音楽と詩とは切り離せないものであったが、ラフマニノフも「音楽の姉妹は詩である」と語っており、音楽はポエジーそのものであった。
 『アラベスク』は可憐な夢想的な小品だが、割り切れない心の葛藤を表したシューマンならではの作品。ラフマニノフもアメリカでリサイタルのプログラムに取り上げていた曲である。ラフマニノフは無意識的には自分の価値を知っていたと思われるが、常に迷い、自分に疑いの目を向け、自分自身との葛藤に苦しんだ人であった。かくしてこの作品とラフマニノフは私の中で重なるのである。

ワーグナー(リスト編曲):『イゾルデの愛の死』
 ラフマニノフはリサイタルでワーグナーのオペラ『ワルキューレ』から「魔の炎の音楽」を演奏していたが、自宅ではこの『イゾルデの愛の死』も弾いていたことが記録に残っている。ラフマニノフが自作の『交響的舞曲』をピアノで演奏した素晴らしい音源が残っており、それを考えると、ワーグナーのオペラをラフマニノフがいかにピアノで表現したか、どうしても聞きたくなってしまう。

リスト:『愛の夢』第3番
 ラフマニノフの従兄でモスクワ音楽院時代の恩師であったジロティはリストから薫陶を受けたピアニストであった。進路に迷っている12歳の少年ラフマニノフの才能を見出だして、モスクワの名伯楽ズヴェーレフのところに送り込み、正当な道に進ませたのはジロティである。
 ラフマニノフは『愛の夢』をリサイタルでも演奏していたが、音源は残っていない。音源が残っているリストの作品に、ハンガリー狂詩曲第2番、エチュード『小人の踊り』、バラード第2番の冒頭があるが、それらはまるでドラマを見るかのような演奏で、絶妙なテンポ、多種多様な音色やキャラクターに彩られている。

ショパン:バラード 第4番 作品52
 ラフマニノフは晩年、リサイタルのレパートリーの全曲録音をビクター・トーキング・マシン社(後のRCAビクター社)に提案したが、無碍に断られた。それが実現していればこのバラード4番を私たちも聴くことができたと思うと無念でならない。録音が残されているバラード第3番の演奏は、複数のテンポを駆使しながら、統一性を失わない複雑なドラマを見事に描いており、それはアントン・ルビンシュテイン版のデュナーミク、フレージング等を用いた解釈らしい。
 バラード第4番はソナタ形式と変奏形式、ロンド形式が融合したドラマティックなバラード。その複雑な構造の中で、メランコリックな第1主題が毎回変奏されてクライマックスに向かっていく美しさは筆舌に尽くし難い。歓喜と悲哀、幸福と失望の絡み合うこの作品に、ラフマニノフは自分と人生や性格と重なり合うものを見出だして演奏したのではないかと私は思っている。

チャイコフスキー:『四季』より第6番「バルカローレ」、第12番「トロイカにて」
チャイコフスキー(プレトニョフ編曲):『くるみ割り人形』よりアダージョ・マエストーソ

 チャイコフスキーはラフマニノフがロシアで最も崇拝し、最も愛した作曲家であった。チャイコフスキーから「私は彼の偉大な未来を予見する」と言われ、さぞかし力づけられたことであろう。二人ともメロディーの作曲家であった。そのために揶揄もされたが、二人ともその姿勢を変えることはなかった。
 『四季』の6月「バルカローレ」は、薄暗くなり始めた夜、恋人たちが川に足を浸して寄り添っている姿を描いた哀愁を帯びた作品。11月「トロイカにて」は、ラフマニノフがアンコールによく演奏した作品で、音源も残っている。彼の解釈からは、トロイカに乗ってはしゃぐ姿ではなく、トロイカで去っていく愛する人を見送る人の思慕の念がひしひしと伝わってくる。
 プレトニョフは1978年第6回チャイコフスキー国際コンクールの第2次予選で、自分で編曲した『くるみ割り人形』を演奏し喝采を浴びた。文字通り、チャイコフスキーの名前を誇るこのコンクールに敬意を表した彼ならではのパーフォーマンスであった。

作曲家、ラフマニノフ

世紀末を生きたロシアの作曲家たちの音楽は、ある種の類似する情緒的な響きを湛えていた。彼らの作品が不安、苦悩、抗議、昂ぶったパトスなどを感じさせるのは、不穏な時代感覚を反映しているためであろう。変遷を遂げつつあった社会の動きに敏感な人々の不安な予感は音楽にも反映されていた。
 しかし、そのような中にあっても、ラフマニノフは伝統的なロシア音楽に身を捧げることを躊躇しなかった。チャイコフスキー亡きあと、ラフマニノフの音楽に対する姿勢がどれだけ誹謗の対象となり数多の批判を受けようとも、音楽とはあくまでも聴く人々の心を清め、精神を高揚させ、高潔さや勇気を与えるべきものであるという信条を忘れなかった。ラフマニノフにとって音楽は単なる無意味な色彩とリズムの遊戯ではなく、常に深い感情を呼び覚ますものでなければならなかったのである。
 ラフマニノフはロシアの自然を愛し、ロシア的なものを愛し、ロシアの民謡を愛した。ロシア民謡のメロディーを引用することはなかったにもかかわらず、彼の音楽はロシア的であった。シャリアピンは「ロシア的とは何か」と訊かれたとき、「ラフマニノフの音楽をお聴きなさい。それ以上にロシア的なものはない」と言ったが、生涯ラフマニノフはロシアの大地から育んだものを手放そうとはしなかった。

プレリュード 作品3-2 嬰ハ短調
 1892年、ラフマニノフ19歳のとき作曲したもので、彼の作品に欠かせない「鐘の音」が鳴り響く。彼は教会の鐘の音に幼少のころから魅了され、特に幼少期、祖母の住むノブゴロドで聞いた教会の音を終生忘れなかった。当時、ロシア人たちにとって鐘の音は日々の生活に密着した響きであった。

プレリュード 作品32-5 ト長調
 5連符の伴奏形の上を、清らかなメロディーが静かに流れる抒情性溢れる作品。

練習曲『音の絵』作品33-8 ト短調
 絵具としての音の響きを通じて、ラフマニノフはスラヴの魂を表出する。ロシアの特性であるうねるメロディー線が繰り広げるメランコリーと情熱的な世界は限りなく美しい。

プレリュード 作品32-12 嬰ト短調
 ラフマニノフの音楽の特徴に、時間の彫塑性が挙げられるが、この作品は、彼自身によってテンポの変化が細かく記され、ルバートの必要性を作者自ら強調している作品。基本になっているのはロシア特有の合唱とソリストの演奏形態。それでいてどこかジプシー音楽を思わせる響きの色に彩られている。朝には教会に行き、夜にはジプシーの居酒屋に行くことを好んだラフマニノフが偲ばれる。

楽興の時 作品16―6 ハ長調
 ラフマニノフが23歳のときの作品で、彼が将来を約束され華々しく音楽界にデビューした頃のもの。第6番は鐘の音と太いメロディー線がうねる。

ソナタ 第2番 変ロ短調 作品36
 優れた芸術家とは、常に心に闇を持っているものではないだろうか。自分を疑う者の人生は過酷だが、その報酬として深い芸術の追究ができると言っても過言ではあるまい。ラフマニノフは、しかし、尋常でないほど自信喪失に悩まされた音楽家であった。
 彼は少年時代、両親の離婚という悲しみに襲われたが、それを乗り越えてモスクワ音楽院の学生のときから数々の名曲を生み出した。だが、交響曲第1番初演の大失敗はトラウマとなって生涯ラフマニノフにまとわりつく。この精神的な打撃を受けたのは彼が24歳のときだった。ロシアではなにか刷新的な形式を見つけなければ、たちまち折衷主義だの亜流だのと揶揄される時代にさしかかっていた。しかし、彼の音楽の河床は祖国ロシアであり、ロシアの民衆の奥深い生活や自然が彼の芸術の元であることに変わりなかった。失敗でどれだけ傷ついても、もっぱら知覚に訴える形式の独自性を崇める風潮に巻き込まれることだけは避けたかった。かくして彼は、音楽へのパトスと「犯罪的なほどの精神的謙虚さ」のギャップに苦しむ。
 1913年に作曲されたこのソナタ第2番に終始漲る緊張感はすざましい。上記のような作曲者自身の精神状態のみならず、いつ革命が起きるともわからない暗雲立ち込めるロシアの状況が見え隠れする。第1楽章は絶望の鎖を断ち切らんと力を振り絞るような短長格のモティーフで始まり、随所から、差し迫った嵐の憤怒と憂いの入り乱れた鐘の音が聞こえてくる。これこそラフマニノフのパトスである。第二主題は、ロシア正教会の合唱だ。このモノローグの歌声に包まれて、我々は神前で安らぐ。彼が幼少から愛したロシア正教会の空気がここにはある。しかし展開部で『ディエス・イレ』(怒りの日)のモティーフの断片が現れると、また耐えがたい懊悩に苦しむ。そしてそれはとめどなく興奮し、まるで狂ったように鐘が鳴り渡る。再現部で再度第一主題のパトスが現れるが、コーダでは疲れ果て冷たい石畳の上に倒れこむ。
 第2楽章は合唱曲『徹夜祷』を予期するかのごとき楽章。ここでもロシア特有のソリストと合唱の組み合わせが美しく、清らかで憂いのあるメロディーが下へ下へと落ちていく。この長い下降のメロディー線は、ラフマニノフ語法の特徴である。後半になると、第1楽章第一主題のモティーフが断続的に現れ、それは徐々に高揚しカリヨンの鐘の音のごとく響き渡る。張り裂けんばかりの胸の思いをぶち撒け、絶望に打ちひしがれるが、傷ついた心に響いてくる聖なる合唱の音に救われて、最後は安らかに終わる。
 第3楽章は、ついに春の到来を告げる。第1楽章の第一主題が変ロ長調の3連符の音型になって、まるで大河を流れるかのごとく勢いのよい姿を見せる。第二主題は『ディエス・イレ』の動きが長調で現れる。私はこれを愛の象徴と感じている。1931年このソナタは改訂されたが、そのときラフマニノフは再現部から第一主題をカットした。そのため、展開部で高揚した第一主題が高らかに愛を謳う第二主題に繋がり、クライマックスを形成する。この情熱に、すべての争い、いさかいは解消され、愛のエナジーの上に終結する。